伊藤整一海軍大将墓碑


戦艦大和の艦長として艦と運命を共にした伊藤整一海軍大将の墓碑が大牟田市にあります。
出身は現・みやま市高田町だそうです。
峠茶屋峠茶屋という商店のところが海軍大将墓碑の無料駐車場になっています、歩いて数分です。

伊藤整一海軍大将墓碑伊藤整一海軍大将墓碑

IMGP0027_Rこの古い碑が本来というか、昔に建立された墓碑なんでしょうか。

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明治二三(一八九〇)年七月二六日、伊藤整一は、三池郡開村(現、みやま市高田町黒崎開)に生まれ、開尋常小学校から岩田小学校、中学伝習館(現、伝習館高等学校)に入学し、明治四一(一九〇八)年九月、海軍兵学校へ入学し、水雷学校、砲術学校に学び、その後大正六(一九一七)年海軍大学で学び、卒業。同一〇から一ニ年までふたたび海軍大学で学びました。
その後、軽巡洋艦「木曽」や重巡洋艦「愛宕」の艦長を務め、海外駐在も多く体験しました。
日米が開戦し、第二次世界大戦が勃発しました。
昭和一九(一九四四)年一ニ月に第二艦隊司令長官に就任しました。連合艦隊司令部参謀からの命令は、「大和」をはじめとする第二艦隊全ての艦艇をそのまま特攻兵器とするという内容でした。昭和二〇(一九四五)年四月六日に日本海軍の旗艦の戦艦「大和」に座乗しました。翌七日一ニ時三〇分ごろ、約四〇〇機もの米軍航空機から攻撃を受けた「大和」は迎撃を開始しましたが約二時間後に戦闘能力を失いました。整一は「大和」が絶望的と判断するや、独断で沖縄突入作戦を断念し、作戦中止を命令しました。この判断によって若い将校や乗組員は戦線離脱を許され、多くの命が救われました。生存者の脱出を見届けた整一は、艦長室に籠り、自決しました。この沖縄戦の日本軍の戦死者は約三七〇〇人、生存者は約一七〇〇人、そのうち「大和」の生存者はニ六七人でした。
日米開戦に最後まで反対し、最後の出撃では若い将校や乗組員に退艦命令を出し、自らは艦に残って戦死したのです。戦争の残酷さやむごたらしさを知り尽くし、戦争のない平和な世界を希求した人物でした。昭和二〇年四月七日戦死、同年七月、勲功により海軍大将に任じられました。同三三年四月七日、墓碑と顕彰碑が大牟田市岬の金助坂の秋丸墓地に建立されました。